昭和39年11月28日  朝の御理解

宗教的な佇まいというものが、だんだん出来て参りますと、その中身がだんだん火が消えたようになる。それではつまらん。まあいうなら「実れば実るほどかがむ稲穂かな」というような歌がありますが、信心の中身が出来てくればくるほどに、信心の教養とか、うー、まあいうなら、その佇まい的なものが身に付いてくる。何とはなしに、えー信仰でも持っておられるのであろうといったような雰囲気というものがその身に付いてくる。また家にも付いてくる。
ところがです、その実が入らんなりに、ただ頭だけこう下げとる、といったようなものになりがちだという事です。これはあの、御本部なんかにお参りいたしますと、そのそんな人達によく会いますですね。もう言葉は金光教的だし、もう態度なんかは、実意丁寧そのものだし、もう本当に、地を低うしてですね、いわばおられるといったような方達に会いますけども、中身には何にもないっちゅう、、。中身がでけて頭が下がっておるのではない、といったような感じの人に会うことがあります。
例えば、あのお寺さんなんかへ参りますとですね、ほんとにこの宗教的な佇まいというものが、こう、ひそひそとしてこちらに伝わって感じられるようなものがあるでしょうが。ところが中身にはなーんにもないでしょうが、ね。私は、その、それがどうでも必要なんですよ。やはり信心さしてもらうならば、これはお広前にでも、お互いの家庭にでも、また自分の心の中にもです、そうした宗教的な佇まいが本当に必要です。また、美しいものです。
けれどもその中身にはね、燃えるような求道心がなかなきゃだめだと、私は思う。中身にはもう、求めてやまん求道心がなからなければ、だめ。そこに初めて私は、形の上だけではない、心の上の上にもです、実意丁寧にならなければおられないのであり、いわば実が入れば入るほど、ほんとに頭が下がってくるていうものに、なからなければならないということです。
昨夜の御祈念に、田代(タシロ)さん、むつやの田代(タシロ)さんがお届けしておられる事ですが、先日から、お店の改装があった。んー綺麗になったんです、お店がね、改装されましたんです。それのお礼、まあお礼なり、報告なりのお祭をして頂かんならんと言いながら、何ヵ月か過ぎてしまった。そして、えー、おー、あれは何日の日でしたかね、永瀬(ナガセ)さん、(永瀬:「22日」)22日でしたかね、22日の日にそのお礼の報告のお祭があった。
前の日から準備にとりかかられる、というような、そのー、ことでございましたがです、もうあの21日から、もう前のその準備をしておかなければならないという、その21日からです、それの、これは明日お祭りで手を取るから、こりゃ明日の分まで神様おかげをくださるのかというように、ほとんど2日分の売上げがあった。
ところがです、昨日来てお届けされますのに、私が申しておりました、「親先生がお祭りの後の御理解の中に、こうしてお祭りを仕えられたというだけじゃいかん。このお祭を仕えさせて頂いたら、お祭りを境にお店の上にも活気がでてくるというくらいな、おかげが頂けるようなね、信心をもって真心をもって、このお祭りを奉仕されなければならない」と私が申しましたがです。
「昨日私はあの、繁雄(シゲオ)さんに、帳簿の扱っておりますから、あの、どげなふうですか、売上げの方は。それがお母さん、もうあれを境に、とにかく売上げが大変増しておるということでございます、と言う。側に信心のない店員の方達もおりましたが、もう奥様、もう私どもが見てもやっぱりおかげじゃろうと、こう言うように、おかげ頂いておりますと、こう申します、とこう言う。私は、具合が悪くてちょっと休んでおりましたけれども、そんな具合でそのおかげをこうむっております。お礼を申し上げて下さい」ということであった。
私は信心がですね、たしかにお願いをさせてもらう時に、一つの迫力というか、修行でもさしてもろうて、お願いをするということと同時にですね、ほんとに段々おかげを頂いて参りましたら、今度はお願い参りから、いわばお礼参りと、そのお礼参りの中にもです、そうした迫力を持った一修行さしてもらいながら、お願い参りの時とおんなじような思いでです、内容は御礼である。という御礼参りになるとですね、どうも気が抜けるような感じがいたします、ね。
御礼を申し上げねばならなんふうに、段々おかげ頂いて来た。いよいよ宗教的佇まいというものが出来てきた。ところが、そのもう、お礼を申し上げなければならないような状態になってくればくるほど、中身は火が消えたようになるというのはどういう訳だろう。私はその、お願い信心の時にです、さしてもらったような修行やら、迫力やらといったようなものが欠けてくるからではなかろうかと思う。
そこで私はね、どういうような事が欠けておるかと、というと、迫求だと思う。ね、いわゆる求道。求めてやまんという心、いよいよ。いよいよ信心の神髄に触れることの楽しみ、喜びというものが、そのおかげを頂いたよろ、頂いていくとこの喜びというものと同時にそれがなからなければならないという事。抑制だと思う。辛抱だと思う、私は。次に、反省だと思う。それがです、どういうような些細な事の中からでもです、追求がなされていき、反省がなされていくというものでなからなければならないと思います。
毎日、古賀(コガ)先生を例に上げますけれども、最近、古賀(コガ)先生が、やはりそういう意味で、えー、最近の信心ぶりの中に、なんて、そういうものを感じますから、まあ、つい、そういうふうに形に現れてくる事も、まあ、人の心を打つもの、また心を引くものを感じますから、まあ、古賀(コガ)先生、いつも例にとりますけれどもですね。
昨日おとといでした。私がもう大事に大事にさせて頂いておる、あの、御神酒を頂くセットを頂いておった。それはもう見事なものであった。それはその紙のように薄いんですね、お盃なんかは。そのかんびんなんかでも、もう昔はありゃあ、もう一遍一遍にあの盃を取り替えるというほどに薄いものだったらしいですね。
ですからもう、実に大事にしな、しておるわけですね。もう御神酒が透き通って見えるように薄いんです、(?10:09)御盃なんか。これはもう、古賀(コガ)先生、これはもう、あんたが一つ責任もってから直しとかないかんて、あたくしが。もうだから、それをだい、他のもんに当たらせません。もうこうして丁寧にいつも扱っているんですけど。そう言いながら、言いながら、机にぽっと取り落としたです。もうこの時はもう、それが薄いもんですから、もう、カチッちゅうて、その盃のほうが割れてしまった。
それをただ、「はあ、どうもすみません。(?10;46)大事にしておられるものを、ぶちょうして割りました」という、お詫びだけではいけないと思うですね。只今申しますように、そこから、私は追及やら反省やらがなされていかなきゃいけないと思うんですよ。例えば、最近のごたる日々ほんとに神様から(一瞬音声が切れる?11:06)私、有難いなあと思うんです、ほんと。もうほんとに不思議でたまらんぐらいに有難いと思うです。
もうあたくしは、「あんたぐらいなものが、こげなおかげ頂くけんで、通いで少し本気でみんなが打ち込んだら、いうならおかげを頂く」。あんたぐらいなもんちゅうのも失礼なけれども、だいたい非常にこの教学的で理屈っぽい先生ですから、あの霊徳の面なんかには、こう、触れにくい性質の人です。
それがもう最近、神様から頂かれることなんかが、もう実にその有難い事で、しかもはっきりとですね、頂いていくんです。だからそれが頂いただけではいけないです。ね、そういう事をどう、例えば、昨日の御理解の中に申しましたようにですね、昨日の朝、おとといの朝でしたか、頂いておられるその、原節子(ハラセツコ)さんに、ここで、が、御神米を下げて頂いておる。
その御神米に、(?12:11)が大切と書いてあった。それがもう実にその鮮やかに、ていうですか、そのまざまざと、ていうですか、もうこう、顔が、御祈念の時に顔上げてみて、御結界のほうば、あの、見てみらんならんほどに、はっきり頂いた。「あ、今のは御心眼だったな」と。それでそのお届けがありました時に、「それはなるほど、んなら一般の者が頂かなければならないことなんだ。誰でもこのこと、(?12:36)が一番大切というような信心にならなければならないのだけれども、これはね、古賀(コガ)先生、あんた自身、あんただけ、あんただけにくださったもの。だから、あんただけが分からなければならないことがある」と、あたくしは、まあこう申したんです。
ですから、そのことをです、あたくしが、なら、どうこの事、この神様の直接のみ教えの中から頂かなければならんかという、追及がなさらなければいけない、とあたくしは思う。もちろんだから、なされておることであろう、とこう思う。「あんなに先生が大事にしておられた盃、私が割った。張本人のいやあ私が割った。人に文句言う訳はいかん、ならん。ここにはどういう御神意があるだろう」。
ね、例えばあたくし共、日常生活の中にです、そうして「これは神様どういう教えであろうか」とこう、あたくしはその、そのことを心に止めて、追及していくところの気持ちというものがなからなきゃいけない。これは神様が、おかげの印といったようなものを見せてくださるんですよね。例えば、なら、むつやのさっきの場合でもおんなし事、ね。
「はあ、こげなことなら、もうはようお祭ばすりゃあよかった」というようなお祭りじゃいけないところに、信心のいわばデリケートさがあるわけなんですね。
そうさせてもらわなければならない、というようなものが、田代(タシロ)さんを中心にして、周囲の息子たちやら、店員さんたちの上にもです、そういう一つの盛り上がりというものが、お祭になって、初めてそういうおかげになっていくのですから。ね、ところがそれがです、必ず、また元に、元に戻るんです。例えばその程度のことでは、ね。
お願いをさして頂くと、生き生きとしたおかげが現れてきた、と、現れてきたそのおかげに対して、また生き生きした今度は、お願い信心から、お礼信心にというふうに、生き生きとしてくるという、おかげをこうむっていかなければ、それがほんとのおかげになっていかんです。
ですからそういうような、いわばあの、それはちょっと言葉がね、おかしいですけれども、まあ、これは人間の家においても、家の上においても、御広前の上においても、おんなじ意味のほうに、皆さんがとって頂かなければならないということですけれどもね。あのいわゆる、宗教的佇まいというものがです、なんともいえん、あのおかげがこう現れてくると。そうするようになると、中身の火が消えたようになる、と。なるほど実意丁寧とはこんなものだろうかという、頭を低うせらけ、する、態度だけは覚えて、ところが、中身がない。ただ頭下げとるだけ。
ちょうど(?15:39)のようなもの。実の入ってない(?)ようなもの。実がはいっとらんばってん、こげなふうにしとるごとして。(?)。ね、あれはいよいよ実がいって、地に頭が着くような、それにそういうおかげを頂くために、あたくしは今、古賀(コガ)先生の例をとりました。
追及が大事だと、そのことを追求していくことが大事だ、と。でなかったら、神様がせっかく下さったもの、神様がわざわざ私の大事なものを割らせてからでも、分からせようとしておりなさることが無駄になるじゃないですか、ね。そこにあたくしは、追求がなされると同時にです、ね、やはり信心には抑制です。辛抱するということです。その辛抱も色んな広い意味合いでの辛抱も、いわゆるなかなきゃなりません。
そして、あたくしは、反省です。そういうような、あたくしは、この信心が繰り返されていって、初めてなんともいえん、信仰的、宗教的、その雰囲気というか、佇まいというものが、その家にも、御広前にも、自分の身の上にも付いてくると同時にです、中身は燃えるような、いわゆる求道心、追及する心。ね、そこにあたくしは、いよいよお願い参りの信心的な信心から、ね、いよいよ神様に喜んで頂ける、お礼参り的な信心がです、しかも迫力を持って、ね、追及と抑制と反省といったようなもの、その内容にあってのお礼参拝的、お礼参拝的信心が段々でけてくるようになると、私は思うのでございます。おかげ頂かれました。